3人の
バイオグラフィー
黒田チカ、牧田らく(金山らく)、丹下ウメが
卒业后どのような人生を歩んだのか。
それぞれの生涯を绍介します。

黒田チカ
KURODA CHIKA
[ 有機化学者 ]
女性科学者のパイオニア
1884生-1968没
/ 1916年理科大学卒业
お茶の水女子大学名誉教授、大正?昭和期の化学者。旧佐贺藩士黒田平八の叁女として佐贺県に生まれる。佐贺师范学校を経て1906年(明治39)东京女子高等师范学校理科卒业。その后福井师范学校教諭を経て东京女高师研究科研究生となり、终了后助教授に就任。
1913年(大正2)东北帝国大学理科大学化学科を受験し合格、わが国初の女性大学生のひとりとなった。入学后真岛利行の指导をうけ、有机化学の研究に没头、同五年卒业、日本初の女性理学士となる。
1921年(大正10)から1923年(大正12)まで文部省留学生としてオックスフォード大学で有机化学を研究。帰国后も紫根、红花など日本产植物の色素について研究をあげ、1929年(昭和4)「红花の色素カーサミンの研究」により日本で2人目の女性理学博士となった。その后も理化学研究所员として青花、黒豆、茄子、シソ、玉葱などの色素分析の研究に成果をあげ、また妇人科学会会长もつとめるなど女性研究者の地位向上にも尽力した。

牧田らく
(金山らく)
MAKITA RAKU
(KANAYAMA RAKU)
[ 初の数学科女性理学士 ]
孤高の洋画家?金山平叁の妻
1888生-1977没
/ 1916年理科大学卒业
京都の呉服问屋の娘として出生。京都府高等女学校在学中に数学への関心を育み、やがて东京女子高等师范学校に进学。1911年(明治44)同校を卒业すると、将来の东京女高师教员候补者を育成する研究科に推荐され进学した。东京女高师在学中同校に出讲していた林鹤一东北帝大教授の指导を受けるようになり、研究科を修了し嘱託教员となっていた1913年(大正2)8月に、周囲の强い勧めもあって东北帝国大学理科大学数学科を受験し合格、黒田?丹下と共に日本初の女性大学生となる。
1916年(大正5)5月、东北帝国大学を卒业し大学院に在籍しつつ母校に数学讲师として復帰。时を同じくして、当时将来を嘱望されていた洋画家金山平叁と知り合い、1919年(大正8)に结婚する。
同年、东京女高师の教授に就任したが、その顷すでに研究者、教育者であることと画家の妻であることの両立に限界を感じており、同年东京女高师を退职。その后も『东北数学雑誌』に数学研究に関する文献目録を掲载するなど研究活动は続けたが、后半生は帝展の改组问题で画坛と縁を切り孤高の道を歩んだ夫?金山平叁を支える日々を送った。

丹下ウメ
TANGE UME
[ 化学者?農学者 ]
女性科学者のパイオニア
1873生-1955没
/ 1918年理科大学卒业
鹿児岛県生まれ。小学校教员をつとめたのち日本女子大学校一期生として入学。卒业后同校の化学教室の长井长义教授(东京帝国大学医学部薬学科教授)の助手となり、文部省中等化学教员検定试験に女性として初めて合格した。1913年(大正2)に、东北帝国大学理科大学化学科を受験し合格、黒田チカ、牧田らくとともに、わが国初の女性大学生のひとりとなった。
大学入学后、有机化学を専攻し、真岛利行教授の指导を受ける。休学のため进级は遅れたが1918年(大正7)に卒业した。その后は东北帝国大学の大学院に进学、応用化学教室助手を経て、アメリカに留学。帰国后、母校日本女子大学校の教授に迎えられる。有机化学の応用として、栄养学を志し、母校で教鞭を执る傍ら、理化学研究所の铃木梅太郎博士の下でビタミン叠2复合体の研究に励み、1940年(昭和15)、东京帝国大学より农学博士の学位を授与された。
文責:东北大学史料館 加藤諭准教授